2011年9月6日

フウセンカズラから自家採種の大切さを知る

(2011/09/06撮影。これが一体,何の種か分かりますでしょうか?)

夜中になっても30度。…多少,寝不足気味のあべっちです。
実は左のメニューの私の挨拶文に「長野移住までの日数」がカウントダウンされてます。
この記事を書いてる時点で長野移住まであと208日。もう待ち遠しくて仕方有りません。

もし「一気に2012年4月1日になるボタン」があったら…思わずのどなどの穴から手が
出てきて押してしまいそうですが押しません。そんなことをしたら今一番可愛い時期の息子との
7ヶ月が消えてしまいますもんね。我慢我慢~。指折り数えて気長に待つとします。

今回はそんな生活の中で癒しをくれているフウセンカズラのお話です。

さて,今年もフウセンカズラが西日の当たるせっけん部屋の窓ガラスを覆い尽くしてくれた。
そう,冒頭の可愛い色かたちの種はフウセンカズラの種だったのである。

私はグリーンカーテンが好きだ。ガラス越しだと透明感があって綺麗だし,
窓を開ければ爽快感がある。なんだろう,目が落ち着くというか安心するというか。
小さなミツバチ達が小さな花を探し出して花粉集めを楽しんでる姿はほほえましい。
きまぐれで大きなハチもブブーンと飛んでのでそのときはびっくらぶっこくのだけども。

このフウセンカズラは2年前に母親が「種がミッキーマウスみたいで可愛いよ」と
採種して食べ物と一緒に送ってくれたものだ。

私は幼い頃から家族とか兄弟とか血のつながりに感動していたところがあった。
なので家族からのもらい物などは別れたら捨てなくてはいけない彼女からのプレゼントよりも
実は大事にしていたのは内緒だ。

だから「母が自分の庭で育てたフウセンカズラの種」はとても嬉しかった。
保存状態も良かったようで,2009年当時で,ちゃんと発芽してグリーンカーテンが出来た。

(2009年8月27日撮影。同じ石けん部屋の窓。何気なく窓に写ってる。)

だけどこの時はまだここの土に慣れてなかったようで,夏の終わりになんとかガラスの
てっぺんまで届いたという感じだったのだ。

それからは毎年植えて採種し続けた。
そうすることでそこの土や環境に適応していき,成長が良くなっていく。

(2011年9月4日撮影。千葉の強い日差しを遮るにはこのくらいがちょうど良いと思う。)

そして2011年はこんな感じ。屋根まで届いてUターンしてる。すごい勢いだ。
生命力にあふれた,強くて綺麗なフウセンカズラになった。

この親から採れる子供(種)はこれと同じかこれ以上の大きさになるだろう。
数年越しの体験で,身をもって植物の自家採種のパワーを確信することができた。

黒人達が黒いのは強い日差しから体を守る為に代々少しずつ進化してきた証だ。
生き物が我が子へ伝えたいことは,しっかりと子供に伝わってる。
自家採種は生き物にとってとても重要な仕組みなんだ。

だから私は「自家採種を禁止して遺伝子組み換え種を使わせる流れ」に猛反対している。
信じられないだろうけど,アメリカではもうそういう流れになっているし,アメリカの犬である
我が日本もほとんどの種会社は海外の企業に買収されてしまった。

利権のために他の生命の遺伝子を操作してはいけない。
それは今の技術では処理出来ない原発から出る放射性廃棄物のようなものだ。
御用学者ばかりの人間ごときに管理出来るわけがないのだ。

今までは無かったような変な病気が広まったり,害虫が大量発生したりするだろう。 それを防ぐためにまた新たな農薬を作るのだろう。新たな遺伝子操作をするのだろう。

便利や楽を選び続けて,生き物が本来持ってる至高の能力すら奪って何になるだろう。
結局は金が欲しいだけなんだ。金を手に入れる為なら「原発はクリーンなエネルギー」とか
「CO2が地球温暖化の原因」とか平気で世界を巻き込んだ大嘘をつく。

私と私の家族は息絶えるその日まで自家採種をして生きよう。そんなことを風にゆれるフウセンカズラに誓う。

ほら今年もまた秋が近づいてきた。茶色くなったフウセンカズラから種を採ろう。

(2011/09/04日撮影。なんだか可愛くてほおずきと見間違えて食べてしまいそう)

2011年9月3日

だから両親様,どうか心配しないで。

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(窓際に竹竿をかけてものほしスペースを作る私(8月23日撮影))

「来年から脱サラして田舎暮らしして農業で食っていく」。

そう友達に話せば「面白そうじゃん,今度遊びに行くよ」と気楽に言ってくれるのだが,
親としては心配するのは当然だと思う。それが借金して買った古民家が実は屋根も床も
腐っててボロボロだったと聞けば尚更心配してしまうだろう。

苦労は出来るだけして欲しく無い,苦労のない人生を歩いて欲しい。
それが親世代が考える幸せのカタチなのだと思う。

お金はあればあるほど幸せで,貧乏だと不幸せだ。
お買い物とたまの外食が楽しみだけど,将来の夢は新築のマイホームだから
100円均一に囲まれた生活をしながら,毎日の食事もおろそかに節約生活をしてる。
定年したら思いっきり遊ぼうと心に決めて,人生の半分以上を会社の中で過ごしている。

私自身も5年くらい前までは正にこの状態だった。
お金が無い貧乏生活を工夫して楽しもうとはしていたものの,結婚資金にマイホームの頭金,
子供を大学まで進学させるお金など,ゴールの見えないお金稼ぎの生活に疲れ始めていた。
でも止まることは出来なかった。止まることは現代社会では許されないからだ。

だけど私の価値観が一転する事件が起きた。
数年前,新宿の小さなプログラミングの会社で働いていたときの話だ。

当時,私は千葉県市川市のマンションで1人暮らしをしていた。
プログラムの仕事は楽しかったのだけどバグでも出ようものなら,土日返上の残業は当たり前。
カプセルホテルに寝泊まりする日々も多く,52時間連続勤務という自己ベスト記録も作った。
あるときは残業時間が300時間を超えた壮絶な月が半年間続いた。

ストレスで眠れなくなったときは友人から睡眠薬を貰ったりして難をしのいだ。
夜,寝ているときに突然,歯を食いしばった状態でアゴが金縛りになり,
歯が折れそうになったことが何回もあった。この状態になると両手を歯の間からねじ込んで,
噛ませて歯が折れるのを回避した。これ,信じられないだろうが本当に本当の話だ。

そんな日が続いて血尿も出だしたある日,私は信じられないような行動に出ていた。

朝,いつも通りスーツに着替えて玄関を出たものの,足が最寄りの駅には向かわなかった。
町を一周して家に戻った私は電気もつけずにうす暗い部屋でボーっとしていた。
会社に休みの連絡もしない。携帯電話の電源も切った。

午後になってからだったか,玄関のピンポンが鳴った。
のぞき穴から見てみると母と姉,そして会社の社長と副社長の姿があった。

この間,阿部と連絡がつかないと会社では騒いでいたらしい。
どうして母と姉を呼んだかは意味不明だったのだけど,母は泣いており,心配をかけたと
心の底から反省した。

あとで思うと間違い無く私はノイローゼでありうつ状態だったのだと思う。
「男はお金を稼げ,不景気だから辞めれば雇って貰えない」などの教育を受けていた私は,
我慢して出社してストレスを受け続けていたのだけど,そんなのは私の勝手だ。

可哀相なのは付き合わされる体の方だった。血尿まで出して教えてくれていたのに。
あの日私の体は人間らしく生きるために心に呼びかけ,会社に行くことを辞めさせたのだ。

その会社はそれから半年くらい無難に勤め上げたあと,辞めさせてもらった。
幸運にもその後はすばらしい会社に恵まれて,給料もアップし,順風満帆な感じだった。
だけどずっと胸の中で「本当は何がしたいのだろう」という思いは消えなかった。

あの頃に比べると私は身も心も健康的になった。
まず1番に自分の体の声を聞くようになった。そのおかげで風邪を引きそうなときは事前に
対処できるようになったし,夜はぐっすり眠れるようにもなった。
そして今,私は無農薬の野菜を作って生きることを決断し,夢に向かって走っている。

ほら,そう考えると,どっちの道を進んだ方が心配だっただろう。
駄目な平凡サラリーマンとして貯まらないお金を追い続けてストレスで体を痛める生活と,
収入は低くて苦難が多くても,毎日体をいっぱい動かしてぐっすり眠れる生活は。

だから両親様,どうか心配しないで。
私達は生まれてきたことに感謝してしっかりと毎日を生きるから。
例えお金がなくても苦労ばかりでも,毎日の食事に感謝して生きるから。



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(奥さんが作ってくれた昨日の(9月2日(金))のお弁当)