2013年6月27日

いのちをいただくという事。



梅雨の晴れ間。
草木もすっかり茂り、夏野菜もゆっくりですが、成長してくれています。
ナスもピーマンもトマトもみんなみんな、久しぶりのお天道様を喜んでいるような、
そんな畑で先程も卵を収穫してきました。
こんにちわ♪なんだかこちらでの投稿は久しぶり?!のゆき坊です。

いつもは夫が色々書いていてくれていたこのブログですが、
この度仕事に忙しいあべっちに変わり、私がこの週末の出来事について書こうと思います。
(この内容は、人によってはもしかしたら気分の良くないものかもしれません。
長文になりますので、嫌な方はどうかスルーして下さい。)

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田舎暮らしを初めて早1年が過ぎ、ひよこだった鶏達も立派な卵を産んでくれるようになりました。
夢にまでみた自給生活。家畜がもたらしてくれる恵みは食べ物のみならず、
野菜を育てる上での上質な肥料、そして何よりも、動物そのものがもたらしてくれる
かわいらしさ、存在そのものが癒しだったりもします。

いわば家畜ではありますが立派な家族です。
みんな健康で元気だと、それだけで嬉しくなります。

ゴールデンウィークに子ヤギが産まれた事は、私達家族にとってとても感動的な出来事でした。
命が産まれる瞬間を目の当たりにできる事なんて、ありそうでなかなかないものです。
息子を出産した時ですら、私自身はその瞬間は見ていないワケで、
今回ソラちゃんの出産を見守った事で、自分の出産と重ねて見る事が出来、ふたたび命の誕生に感動したのでした。

が、しかし。
楽しく過ごしていた家畜との生活に、先日悲しい出来事がありました。
農業見学会、卵の宅配と、忙しく過ごした1日がありました。
朝早く家を出て、帰宅したのは夜遅く。
その間、子ヤギがお腹を空かせてはいけないと思い、いつもより少し、母子をつなぐロープの位置を
ずらして出かけたのでした。
私達がいない間でも、子供達がそらちゃんのオッパイをもらえるようにと、考えたつもりでした。

翌朝早朝、真っ先にヤギを見にいっただんなさんから、それは聞かされました。
「子ヤギの「あか」が死んでいる・・・」と。

息子も一緒に裏の山まで走って行くと、そこには息途絶えたあかの姿がありました。
悔しくて悲しくて、前日出かけてしまった自分を後悔しましたが、今までにもそのように出かけてた事はあったので、
運が悪かった。いえ、もしかしたら、今まで運が良かっただけなのかもしれません。

抱きしめるとまだあったかいのです。
なんとか生き返ってはくれないかと涙ながらに訴えましたが、戻ってくるハズもなく。
ただただ、ごめんねって、しばらくはそれだけしか言えませんでした。

家に戻ってきてからも、何も手につかないのに涙だけは出てきます。
そんな私に旦那さんが言いました。
「あかを食べよう」、と。

実は、我が家の子ヤギたちは2人ともオスなのでした。
家畜を趣味で飼っているワケではない私達にとって、(ミルクの自給の為)
オスは当初から、そのうち引き取り手を探さねばいけないと考えていました。
ヤギの掲示板に書いて引き取り手も探しましたが、雄ヤギの需要は思っているより低く、
なかなか引き取り手が見つからないまま時が過ぎていました。
業者に出せば、おそらく九州や沖縄などへ持ち込まれ肉にされる可能性もある。
そう思った時、私達の中では、やんわりとどうすべきなのか、答えが見えていました。

度重なる家族会議の末、 実は1か月ほど前に私達は答えを出していました。
かわいそうだけど、この子達は、家で面倒を見よう(食べよう)という事に、決めたのです。

 

2匹の子ヤギは本当にかわいくってかわいくって、息子にも私達にも、本当によーくなついていました。
ずっと名前を決めたかったのですが、情がうつると人の手に渡る時にも悲しいので、
産まれたあとに首に巻いたバンダナの色で呼んでいました。
最初に産まれた健康優良児が「あか」。
二番目に私達が見守る中産まれた弱々しかったのが「しろ」でした。
今回、その、「あか」が死んでしまったのです。

食べる事を事前に決めていた我々でしたが、まさかこんなに早くこの日が来るとは思っていませんでしたので
心の準備もままならなかったのですが、あかはまだ死んで間もないようで、体がまだやわらかく、あたたかかったのです。
このまま土に埋めてしまうのは、 なんか違う。
悲しいけれど、私達の体の中に入れる事で、この悲しみを何か前向きな物に変えれるような、そんな気がして
私も旦那さんのその考えに、納得したのです。

だんだんに死後硬直が始まる中、かわいいあかに最後のお別れをして、
あかをお肉にする作業が始まりました。
残酷な作業です。
旦那さんにとっても覚悟のいる作業でしたが、私は息子がそれを見てはいけないと思い、
一緒に家にいました。

がんばる旦那さんの、声にならない涙ながらの漏れるような声がたまに聞こえてきます。
それを聞いた息子は「パパのところへ行く!」と聞きません。
 「残酷でかわいそうな場面もたくさんあるけど、見れるかい?」と聞くと、
「うん、あかをお肉にするのにパパががんばっているから、 行く」と言うのです。
覚悟を決めて、私も息子と一緒に行く(手伝う)事にしました。

まずは首を切り、血抜きをします。
私が行った時にはもうその作業は終えていましたが、おそらくこの作業がいちばん辛かったのではないかと思います。
足を縛って逆さまにつるし、血抜きが終わったあとで、今度は皮をはいでいきます。
息子には「嫌だったら家にもどってもいいからね」と伝えましたが、「あかはこわくないよ」と、言いました。
私も、胸がギュっと苦しくなりつつも、何か儀式のような、あかの命に対してとにかく必死で向き合っていました。
はがした毛をなでると、あかなのです。
しろとは違う、ツルっとしたまっすぐのすべすべの毛並み。
息子としばらく、なでていました。

 

毛と皮をとると、そこには私達がよく知っている「肉」の姿がありました。
ピンク色で、不謹慎かも知れないけれど、おいしそうな肉の姿がありました。
足と手を切り、あとはパーツパーツに分けて捌く作業を私がしました。
あかのいのちを無駄にしない為の、前向きな作業がそこにはありました。
内臓もなにもかも、若く健康だったあかはとっても美しいのです。

それぞれの肉や内臓を分けて洗い、食べきれない分は冷凍庫に入れました。
細切れのような、食べやすそうな部分を昼ご飯でいただく事にしました。

 

「いただきます」

うまく表現しがたい、いろんな感情が沸き上がってきましたが、今ここにあるお肉に対する
感謝や慈悲深い気持ちに、静かに満ちていました。
ひとくち食べる。そして飲み込む。
昨日までそこにいた、あかのいのちを、いただきました。
おいしいのです。
ちょっと涙がまた出てきましたが、心の中で、「あか、おいしいよ、ごめんね、ありがとう」と言いました。
息子もお箸でお皿にのったあかのお肉をなでなでしながら食べていました。

体の中が熱くなって、あかの命をいただいたエネルギーで、私の体の細胞が、メキメキと音をたてて進化していくような気持ちになりました。

 

夕飯も、おいしくいただきました。
複雑な心境ではありましたが、今ここにあるあかのお肉も、私達が普段食べているお肉も、
同じ「お肉」なのだという事。

私達は普段、お肉がお肉になるまでの工程を知りません。
パッケージされたお肉をお肉だと思って食べています。
でも、それらは確実に、それまで生きていたんだという事。
そして、誰かの手により、私達が知っているお肉の形になっているという事。

今回の私達がした事を、残酷だと思う人もいるかも知れませんが、
人にまかせればそれで良いとは、思わないのです。
今回、自分達の不手際により落としてしまった大事な命ですが、
あかの命をいただいた事によって、私達は、すごく、すごーーーく大切な事を、身をもって学んだと思っています。

なにより、どこでどんなふうに育っていたのかがわかる命です。
かわいいあかはもう帰ってはこないけど、私達の中で、生き続ける事は間違いありません。

だれかの本で、「7年前に食べた物が今の自分になる」と書いてあったのを覚えています。
あかの命は7年後の自分を作ってくれるのだと思うと、ありがたいなぁと、思うのです。



ありがとう、あか。
ごめんね、あか。

あなたの命をいただいて、私達家族は、また、元気にがんばって、いくからね。

そんな週末を終えて、また、いつもどおりの忙しくも、充実した1日が、繰り返されているそらいろ農園です。


■あべっちによる追記です。(2013/06/28 7:55)

20130623_102500s.jpg (JPEG 画像, 480x360 px)
骨に残った部分でダシをとってみたり、食べない内蔵の部位はロケットストーブで煮込んで鳥たちに与えたりして最後まで食べさせてもらい、最後は綺麗に骨だけになりました。今回は奥さんが血の部分を捨ててしまったのだけど、次回は有効利用したいと思います。ありがとう、あか。

2 件のコメント:

  1. はじめまして。
    自分が生きるために命をいただくという事を、いつでも忘れずにいたいと思いました。
    スーパーで気軽に食べ物を購入できる便利な世の中ですが、全ては命あるもの。肉・魚・野菜・果物・・・
    素晴らしい日記を読ませていただき、ありがとうございました。

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  2. じぇふりさんへ

    はじめまして♪
    コメントいただき、ありがとうございます。
    この出来事は、私達家族にもすごーーく衝撃を与えてくれました。
    頭でわかってたつもりでも百聞は一見にしかず。

    毎日この作業をしないと肉が食べれないとしたら?
    たぶん私達は肉をあまり食べなくなるだろうなと思うのです。
    そして、お肉食べようか、と、心して締めて、とっても大事に食べるんだろうなと。
    今後も家にいる鶏を絞めて食べる日がくるだろうと思いますが、
    スーパーで買って食べる、というのは
    なんて簡単で気軽なんだろうと、考えさせられる日々です。

    でも、食べるのが悪いというのでは決してなくって、命をいただくからには、おいしく、ありがたく、いただきたいなと思っています。

    こちらこそ、長文読んでいただいてありがとうございました^^

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